平成の時間旅行

  座って休もうとベンチに近づいて初めて、小さい頃その公園に来たことがあると気づいた。ベンチのすぐ近くにある遊具の形が、妙に印象に残っていたのだ。それは4つのスロープが小さい部屋を支えているような、なんともいかつい滑り台で、外側の階段だけではなく、真下から筒形ジャングルジムのようなものでも登れるようになっている。かつてその筒の中に入り、まるで巨大な乗り物に乗り込むかのようなワクワク感を楽しんだ記憶がある。それはおそらく小学校入るか入らないかくらいの頃だったと思う。当時の巨大マシーンは、いまはもう痩せた老人のようにこじんまりとして見えた。

  ベンチに座って買ってきたアイスを食べていると、二組の親子がその遊具で遊んでいるのが見えた。何度も滑っては登ることを繰り返す子どもたちと、それを見守る2人の母親である。足元のおぼつかないような幼い子どもたちは、ずっと飽きずにケラケラ笑いながら滑り台で遊んでいる。その様子を眺めながら、あることに気がついた。かつて、ぼくもあの子どもだったのだ。そしてもしかしたら、近くのベンチから誰かがその様子を見ていたかもしれない。いま、ぼくはその誰かなのだ。

  連続的な時間の流れを忘れ、いま1人しかいない自分を捨てた時、すべての時間的距離は縮小する。それは時間旅行と呼んでいいだろう。ぼくが遊具で遊ぶ子どもを見て「ぼくはあの子どもだったのだ」と考えることが、ここで言う時間旅行だ。あるいは、ぼくが見た子どもが成長し、ベンチでまた違う子どもを見るかもしれない、それも時間旅行であろう。ぼくが滑り台で遊んでいた以上、ぼくは時間を越えて滑り台で遊ぶ子どもなのであって、また、ぼくがベンチからそれを眺めた以上、ぼくは時間を越えてベンチからそれを眺めるのだ。

  もっと大きな距離を想像してみれば、それは100年も200年も後のことさえ考えられる。いまこの時が過去のものになり、歴史の上だけに存在する時、誰かが平成時代を想像してみるに違いない。そしてぼくらも同じように、たとえば平安時代とか江戸時代だとかを想像している。だから、未来で平成時代の姿を想像する誰かと、いま江戸時代を想像するぼくは同じ時間旅行の中にいるのだ。

  それに偶然、ぼくの意識は平成時代に生きている。未来人に想いを馳せて、街並みを眺めてみれば、「へぇ〜、これが平成か。けっこう栄えてんジャン」などと言うこともできる。

  そんな長い時間の流れを考えてみたけど、本当は全部仮想現実で、未来なんて無かったりしてね。