侵入者の体験

  夜の街ってエキゾチックだよね、と双子の弟がよく言う。いつだったか、最寄駅からの帰り道でも言っていたし、先日は京都の中心地でも同じことを言うので、それって異国情緒っていうか、単に非日常を見出してそう言ってるだけじゃないのと指摘すると、そうかもしれないと返事が返ってきた。けれど確かに、石畳を歩きながら店灯りの立ち並ぶ様子を眺めると、どこか知らないアジアの小国を訪れているように感じた。祇園四条の駅前は、裏通りまで観光客で賑わっていた。

  そこから何駅か離れた場所に友人が住んでおり、その夜はぼくら兄弟と東京の友人、合わせて3人を泊めてもらうことになっていた。駅前で彼と待ち合わせた頃には21時を過ぎていたため、京都の中心地からすこし離れたその場所は街灯とコンビニの看板照明を残すばかりで、その街並みはほとんど夜に沈んでいた。異国情緒はあんまりなかったかなぁ。ただ真っ暗な夜が空を覆い尽くしていた。友人たちと話しながらしばらく歩くと、街灯の数もさらに減って、目の前を歩く彼らの姿が、月明かりの中にシルエットとして見えてくる。すると、音が聞こえてきた。しゃわしゃわという、なにかたくさんの音の響きだった。歩みを進めるごとにその音は近く大きくなっていく。やがてぼくらがついたのは、田んぼに挟まれたあぜ道だった。蛙の鳴き声である。田んぼの泥に潜む生き物の鳴き声が、しゃわしゃわという響きの正体だったのだ。というか、その時はもうしゃわしゃわなんてものではなかった。すぐそこからも、遠くからもおそらく何十匹という蛙の合唱に覆われて、うるさいくらいだった。

  旅というものは、これは旅行と言ってもいいんだけど、そう言うと休暇としてのイメージが強いから、ある場所へ訪れることそのものとして旅と呼びたい。とにかくその旅というものは、非日常の代表格である。旅先のとある光景、とある瞬間は、ぼくの記憶にずっと残されていて、たまにはその記憶に励まされるようなこともある。たとえば、北海道の並木道がずっと向こうまで続いている光景とか、五日市の森林の、無音よりも静かに感じるあの空気とか。きっと、京都郊外のあぜ道で聞いた蛙の合唱もそんな記憶のひとつになる。

  では、どうして旅先の記憶は、普段のぼくを励ますほどに特別なものとして思い出されるのだろうか。それが、純粋に美しい情景であることももちろんあるだろうが、やはり普段と違う特別な状況、つまり非日常としてそれを体験することも大きな要因としてあるだろう。非日常というものには、その瞬間を他者との関係や与えれた日課としてではなく、自分自身ののものとして強く知覚させる性質があり、それがぼくらの過ごすその時の色合いを大きく変える。非日常が個人の体験としてだけ存在するという点では、非日常がぼくらの日常へ侵入するのではなく、ぼくらが自身のものと異なる日常に侵入した時、その体験を非日常と呼ぶのだ、とも考えられる。それが旅や何か特別な状況ではなかったとしても、ある瞬間が何か異なるものとして感じられたとき、非日常として知覚される。たとえば、夜の街がいつもと違う風に見えるとかね。

  こんな風に、旅と非日常についてさまざまな言い方ができるけど、道端を歩くあの虎猫は、小難しいこと抜きに、答えを知っている気がする。