シンプルに曖昧。

  生理的欲求が満たされれば十分な気がするし、それってつまり、おいしいものが食べたいだけでもある。ぼく自身を代表するこのからだを守るために、この星の自転に従って正しく整えられた習慣。食べること、寝ること。朝が来たらパンを焼いて、服を着ること。そんな典型に従って抽象化された毎日は、惰性的に繰り返すように感じるけど、それが不自由だったり、安心だったり、ぼく一人から見ても評価はままならない。

  これまでの人生を振り返っても、生活の質感はずっと変化し続けてきていて、きっとこれからも変わるだろうなと予測ができる。だんだんと夜は遅くなり、起きるのも遅くなって、翌日の昼まで朝になる。いつのまにか朝ごはんを食べなくなったりね。ドアの外には人間関係と、それにまつわる経験。社会との関わりとか扱いとか。見えない境界線がいつもあって、それを越えて今日はこっち側、明日はあっち側。夜になれば知らない店に入り、広がる味の好み。年をとってやっとできること、逆にできなくなっていくこと…。大小様々な変化があるから、その仕方でさえも、完全に同じだったことは何一つなくて、「繰り返されないことの繰り返し」が、死なない限り続いて行く。

  もし、ある環境に安息を見出してしまったら、それが変わることは怖い。自分の馴染んだ時間や空間が、あるいはそこで一緒にいた人が、過去のものになってしまうのだから当然だ。学校の卒業なんかが身近な例だろう。一度止まってしまったらそこに居続けようとする点では、人間の持つ慣性の法則と呼べるかもしれない。新しい環境や価値観にぶつかるたびに、ぼくの中がざわざわと動く。おいしいものを食べて暮らしたいだけなのにと願い、苦しむこともある。

  一方で、悪くない変化もある。この春、スーパーでレジ打ちのアルバイトを始めた。お客さんの買い物カゴを預かって、バーコードを片っ端からスキャンする仕事だ。ほとんど運動神経を使った作業だから、結構疲れるんだと、やってみて初めて知った。例えばこれは、体験による知識の拡大というぼくの変化だ。なにかを知って、感じ方が大きく変わること。変化についてひとつの表し方をするならば、それは新しい言葉で世界を分節化する感覚に近い。こういう変化が、ぼくはうれしい。大人に近い年齢になって、世界はこういうものだと、もう決められてしまったような気もするけど、何か知ることができるなら、まだ世界は残されているんだという気持ちになる。

  変化という流れの中で、あらゆるものごとは揺らいでいる。時間と空間のはざまで、なにが、いつ、どこに、どうしてあるのか、自問している。答えは出るのだろうか。確かなことはあるのだろうか。いま、ここにあるものは、時間が経てば変わってしまうけれど、そういう意味では至ってシンプルである。全ては曖昧だ。時間と空間を越えて正しい輪郭を持ち合わせるものなんて、なにひとつない。本当とか嘘とか、どちらでもなくただあやふやになっていく。その出発点として、いつもいまがある。

  そういう、シンプルに曖昧なものごとの話を、ここでしようと思う。